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考える面白さはこの上なく美味/意識・人間・心・世界・なんでも・霊魂研究/世界は大激動し始めた

考える面白さはこの上なく美味/意識・人間・心・世界・なんでも・霊魂研究/世界は大激動し始めた

数学の存在から、この世界を読み解く

*数学の存在から、この世界を読み解く#1~20*論理で遊ぼう*

「数学の存在から、この世界を読み解く」ー全部ここに入れた

数学が存在する、ということから、次のような結論を導きだしました。

(ただし、それを断定しているわけでもないし、それが検証されているわけでもありません。その論理展開が面白い)


まず、その結論はこうです。

1。人間とは関係のない目に見えない知性的な存在がありそうである。

2。自由意志はあり、それは運命を改善できる。つまり、運命というものもあるが、それは、人間の努力精進で改善できる、あるいは変えられる。
(ここでいう自由意志とは、すべてが機械論的に決まっているのではなく、自由意志というのがあって、それは、機械論的に決まってはいない、ということです)

3。見えない知性的な存在があり、それが人間などに働きかけたりでき、さまざまなものを変えることもできる。


さて、なぜそういった結論を導きだせたのか、つぎに披瀝しましょう。

数学というのは、人間の頭の中に存在する抽象的で論理的な世界である。

その数学というものは、この世界のさまざまな分野にかなり正確に対応している。

(かなり、といったのは、完璧に、ではないからである。この、完璧には対応していない、というのが、自由意志の存在の根拠になっていると考える)

たとえば、数学のある分野は、この世界のある分野にかなり正確に対応している。

そういった分野たちがいろいろある。

ただし、完璧には対応していない。

なぜ、そういったことになるんだろう。不思議だ。

つまり、なぜ、数学はこの世界の法則を描写できるのか、しかしなぜ、完璧には描写できないのか、ということをいっているわけである。

そこでまず、なぜ人間が数学の中身を考えつくのか、ということを考えてみよう。

まず、この世界に、人間とは関係のない知性的な何かが存在し、そこに数学も存在していたのだろう、と考えられる。

なぜそう考えられるのかというと、以下となる。

生物が発生し、ついには人間まで誕生した、ということを絡めて考えると、
次のふたつの可能性が考えられる。

仮に、進化によって生物が人間にまで至ったのだとしたら、その人間の頭脳によって数学の世界を構築できるなどという可能性は限りなく小さいはずだ。

人間の肉体だけの進化についても、そんな進化なんてありえないように思われるのに(それはまるで、台風たちが、ある野原を何百回も襲って通り過ぎたら、そこに知能をもったロボットが誕生していた、といったようなものだ)、進化が数学的な能力まで人間に与えていた、なんてことはまったくありえない、と考える。

数学を考えつくなんらかの枠組のようなものが人間の頭脳に与えられたとしても同じことである。

したがって、その条件の場合、数学というものは、人間から離れたどこか知性的な存在の中にあったのである、としか考えられない。

次に、仮に進化では生物の発生から人間の誕生までには、とてつもない時間がかかり、地球誕生からわずか数十億年では、現在のような生物の世界にはなっていないという立場(つまり、進化を完璧には否定しない立場)に立つと、やはり、人間とは関係のない目に見えない知性的な存在があって、そこに人間を創り出す情報が蓄えられていて、そのデータが使われ、しかも、なんらかの知性的存在が働きかけかけて、人類を誕生させた、と考えるしかない。

ここでは、もっとほかの可能性も考えなくてはならない。つまり、宇宙は永遠の過去から未来まで、続いていき、永遠の過去に進化によって生物たちがすでに誕生しており、その情報がどこかに蓄えられており、その情報によって、今回の我々の太陽系の地球では、すみやかに人類の誕生にまで至ったという可能性についてである。

直近以上ふたつの立場・可能性においては、それなら、原始的な生物を経ずにいきなり人類が誕生してもよいではないか、ということが主張できる。

その場合、まず、初歩的な生物からつくっていかないと、いきなり人類をつくるわけにはいかないという証明が必要となる。

それに対する答えは、人類だけつくっても、人類は生きていけない、という事実があることを指摘すれば充分だろう。

つまり、食物連鎖の上の方に立っていないと人類は生存できないということである。

地球上に人間だけいても、すぐ人類は死に絶えてしまうのだ。

まず、人類が生きていける地球環境を整えることができない。

酸素すら準備できない。

つぎに、人間の食物がない。

それだと人類は生きていけない。

それにたぶん、人間を構成する有機物の合成も大変なことであり、有機物のない状態から直接人間をつくるのはかなり無理があるだろう。

それにたとえばビタミンCについて考えても、人間はビタミンCを合成できないから、食物に依存するしかない(現在では化学的に合成できるが、そこに至るまでは無理。
これについては、人間の体内でビタミンCを合成できるように人間をつくることはできるだろうが、人間が自然を破壊すると、お前たち生きてはいけないぞ、といったような、創造原理からの警告かもしれない。
そういえば、ビタミンCというのは自然そのもの、といった印象も受ける。
必須アミノ酸についても同じようなことがいえる)。


つまり、
以上の条件の場合でも、前のと同じく、数学というものは、人間から離れたどこか知性的な存在の中にあったのである、としか考えられない

さらに、
進化を完全に否定した立場、つまり、進化では人類は生まれてこない、という立場、つまり、人間とは関係ない知性的な存在があって、それが進化を司ってきて、人類が誕生した、という条件のもとでは、人間に最初から数学の能力を与えることできる。
しかしそれだと、数学の能力も内容も、人間から離れたどこか知性的な存在がもっていて、それを人間に与えたことになる。

以上、どの場合分けについても同じ結論がでたわけである。

つまり前述の、
1。人間とは関係のない目に見えない知性的な存在がありそうである。
ということがいえると考える。


つぎに、
2。自由意志はあり、それは運命を改善できる。つまり、運命というものもあるが、それは、人間の努力精進で改善できる、あるいは変えられる。
(ここでいう自由意志とは、すべてが機械論的に決まっているのではなく、自由意志というのがあって、それは、機械論的に決まってはいない、ということです)
について考えてみます。

それは、
数学はこの世界の法則を描写できる、しかし完璧には描写できない、という事実から、そういえると考える。

数学がこの世界の法則を描写できる範囲が運命であり、完璧には描写できないところに、自由意志が保証されており、それによって人は運命に干渉し変えることができる、と考えることは正しいだろう。

つまり、法則内にあるものが運命であり、数学で表せない部分は自由意志の働く場所である、ということである。

言い換えれば、宇宙は法則に従って運営されており、それは数学的論理と同じ流れの上にある。しかし、数学的論理で表現できない部分があって、それは、そういった論理からはずれており、そこが自由意志の場である、ということである。

さらに、その自由意志によって、運命も変えていける。なぜなら、わずかな変化によって大きな変化をつくることができるからである。

たとえば、人間は雪崩の元を発生させることができ、その雪崩はこの世界に大きな変化を与える結果となる(よい意味での雪崩を狙うべき。悪い意味での雪崩は、質時間回帰によって自分にマイナスをもたらすからである)。

ただし、質の科学でいうと、精神的貯金を積んでいないと、運命をほんの少ししか変えることはできない、プラスな方に変えることは非常に難しい、となる。

精神的貯金を貯めることが重要だということである。


それにしても、自由意志というのは、どこから出てくるのだろう。

ランダムでは出てこないのははっきりしている。

それは、前述の、
1。人間とは関係のない目に見えない知性的な存在がありそうである。
そのあたりから出てくるとしか考えられない。

この場合、人間と関係のある知性的な存在があって、そこで自由意志などを含んだ知性活動が行われ、その判断として自由意志が発生しているケースが多いのではないだろうか。

勘、というものもそこに含まれているケースがあるだろう(勘については、人間の心・知性の波動性の高さと、空間のエネルギーなどのなんらかのエネルギーとが一緒になって、対象に共振し、対象のもつ情報を共有する、といった可能性の世界も考えられる。対象とは、その言葉どおりの対象、知性的ななにか、情報の記録的ななにか)。

(低次元の自由意志というものもありそうである。その場合、知性活動を伴わず、暴発、といった発現をしているように見受けられる。あるいは習慣という形)。

その自由意志の論理、というのはいったいどういうものなんだろう。

それはランダムによる発現ではない。

つまり、なんらかの論理にしたがっているというのはたしかだ。

いったいどんな論理に従っているのだろう。

まず、機械論的な論理でないことは前に述べたとおりだ。

それは言い換えれば知性的な論理ともいえる。

それから、人間的な論理である、ともいえるだろう。

つまりここでは、人間の持つ知性とはなにか、ということの研究が必要だということである。

(しかもたぶんその論理は、正と反が時間を経るとプラスマイナスゼロになるように現れてくるという形になっているはずだ。

善的なものと悪的なものが長い時間をとると同じ量ずつ現れてくる、といった実態だろう。

すべては質時間回帰していくからである。

質の科学でいうとそうなる)

以上をまとめると、
そういった自由意志の論理というものは、知性の論理であって、物質の論理ではないということになるだろう。

知性の論理とは、たとえると、ある意味ソフトウェアのようなものかもしれない

ソフトウェアは(二進法などの)数値で表すことができるが、その数値は物質の上に物質で書かれる。

書かれた記号自体は物質であるが、その働きはある意味知性的であ



知性の実態というものは時間変化を伴った複雑な波動とその変化の中にあるのではないか

そこに知性の論理が含まれて




さて、
3。見えない知性的な存在があり、それが人間などに働きかけたりでき、さまざまなものを変えることもできる。
ということについて。

これについては、先に述べたこと、つまり現在、人間が存在していることについての考察ー時間的なことについて・進化についてなどについての考察の中に既になされている。

つまり、なんらかの知性的な存在があって、そこに人間を創り出せる情報が蓄えられており、しかもなんらかの知性的な存在(前者とは別でもありうる)がなんらかに働きかけて人間を創り出した、と考えられる、という結論になっている、そこでは(今回の人類誕生に限っていえば。今回、あまりに人類誕生までの時間が短いからである)。


さて、以上の考察からの結論として、目に見えない知性的な存在があり、



そこで、唯脳論は機械論であり、そこから自由意志がでてくることはない


唯脳論というのは、心は物質の法則に従うと主張している。

前述の内容により自由意志は機械論的にはでてこないという結論がでている。

脳を機械論的に見て、数学的に記述できない部分があるのは先に触れたように原理的に当然だが、そこから自由意志がでてくるとしても、それこそが自由意志の領域であって、それは知性から発している、ということにほかならない。

つまり、知性などに関しては唯脳論はまちがっているということであり、知性などは物質以外の世界に属する、ということ

しかし、脳の働きの中に、量子力学的な世界がはいっているのならば、唯脳論であっても、自由意志が確率的に記述できるだけで、決定論的ではない、という立場もありうるが、
霊魂的な知性的存在があることが証明されれば、やはり唯脳論は否定され


さて、手短かにまとめてみましょう。

論理展開省略ですから、説得力は劣ってきますが。


1。人間とは関係のない目に見えない知性的な存在がありそうである。

進化によって、人類が生まれてきたとしたら、人間が数学を考えつくことは絶対にないと考えられる。

数学というものが人間を離れた知性的ななにかの中にすでにあって、人間がそれを発見しただけである。

人間のもつ数学的な能力についても同じで、それは、なにか知性的な存在が人間に与えたとしか考えられない。

よって、
人間とは関係のない目に見えない知性的な存在がありそうである。
ということになる。


人類が誕生するにあたって、知性的ななんらかの存在が関わってきていたとしても、やはり、人間のもつ数学的能力はそれが与えたものであり、数学の世界もそういったところにあったのである、ということになる。



2。自由意志はあり、それは運命を改善できる。つまり、運命というものもあるが、それは、人間の努力精進で改善できる、あるいは変えられる。
(機械論的には決まっていない自由意志というものがある、ということです)

数学というものは、この世界のさまざまな分野にかなり正確に対応している。
たとえば、数学のある分野は、この世界のある分野にかなり正確に対応している。
そういった分野たちがいろいろある。
しかし完璧には対応していない。
この、完璧には対応していない、というのが、自由意志の存在の根拠になっていると考える。
つまり、数学で法則を記述できる範囲が運命であり、描写できない部分が自由意志の場所であると考えられる。

そして、その自由意志で、運命は変えていける。


3。見えない知性的な存在があり、それが人間などに働きかけたりでき、さまざまなものを変えることもできる。


これは、1。とほぼ同じ理由となる。
人間とは関係のない目に見えない知性的な存在があってそれが人間に数学的な能力と数学の世界を与えたのでなければ、人間には数学的な能力もないし、数学を考えつくこともできない、と考えられるからである。



さらにそこからでてきたものとして、

心や意識や知性が脳という物質の組織からでてくると主張する唯脳論は間違い



知性とはなにか

知性の論理を、ソフトウェアをモデルに考えてみる

ソフトウェアは(二進法などの)数値で表すことができるが、その数値は物質の上に物質で書かれる。

書かれた記号自体は物質であるが、その働きはある意味知性的であ



さて、
知性の実態というものは時間変化を伴った複雑な波動とその変化の中にあるのではないか

そこに知性の論理が含まれているはず



知性をジグソーパズルをモデルにして考えてみよう


心とはなにか
かなり前に示した意識の主体との関係は

意識の主体での心的内容は波動組織で時間とともに変化する

それは三次元(以上)のアメーバのような形状体

その変化の論理

f(x y z t)

Δx Δy Δz Δt ここにその論理が組み込まれている Δtがそれを駆動する

ある形状と次に現れる(あるいはその他の)形状との関係・つながり

ある表現(文、文章、命題)から次の表現に移ることを納得できるなら、そこになんらかの論理がある、となる


知性、論理、意識、心、本質、質、意味、などに関係のありそうな単語(イメージ)を挙げてみよう(あまりに難しいので、そうやって考えていくしかない)

共振 調和 整合 倍音 音楽 クラッシック音楽 和音 ハーモニー 対位法 波動パターン

増幅 フィルターふるいにかける 似た要素 方向性 選択

絵画 映像 写真 彫刻 芸術 色 色調 補色 暖色 寒色 似た色

同質 異質 対義語 同じ 反対 対 反意語

性質 質 味わい 本質 意味

判断 洞察 勘

論理 展開 方向性 反転 つながり 関係 関係性

滑らか 凸凹 整合的 反発 引き合う くっつく

本質は形 DNAコードと蛋白質の形・その対応関係 そこにはコード(二進法などの数値など)と形・本質との対応関係があるかもしれない
意識の主体内での味わい・意識内容の実態はなんらかのエネルギー組織の波動パターンとその変化(時間経過による)
それはコードにも対応している
そこの対応の論理は
たとえばDNAコードとタンパク質の形・生体の形状
そこになんらかの論理が見いだせるかもしれない
コンピュータープログラム 機械語と人間がかんたんにわかり扱える表現との対応 逐次翻訳 一括翻訳 それらの関係の論理
ジグソーパズル 断片 それらの曲線と絵・図柄との関係 方向性 イメージ 発見 かみあわせる 会わせる 組み合わせる 組み立てる

出発点と目的のもの そこを見比べる それらの中間にもさまざまな要素たち 分析 総合 帰納 演繹 発想 まとめる 検証


共振させ 要素を増やし なんらかに関係あるものを増やし集め フィルターにかけ必要のないものを捨て 組み合わせ 捨てたものを復活させ 組み合わせ
以上を繰り返し目的のものを得る


意識の主体における心的内容は波動組織であり、それは時間とともにさまざまに変化していく
心的内容は知性内容である
論理とは ある知性内容から別の有効な知性内容に至るところに存在する移行の力(のようなもの)である(知性においては)
それはパターン(波動などの)や形の中に存在する 部分のパターンと全体のパターン 部分の形と全体の形 その部分と全体との関係 それらとコードとの関係
コードは設計とか情報であり パターン(波動などの)や形は実態・現実に対応する


なにもない~コード・設計図~完成品
それらの間にはさまざまの段階がある
なにもない~断片・部分~フィルタリング~組み合わせ~フィルタリング組み合わ~ちょっと上の断片・部分~~~~~~~~(以上が凝り返され、より高度のものが生まれていく)~~~~~~~~~~目的のもの

組み合わせとフィルタリングはどちらを先、がよいか
組み合わせないと そのよさが確認できない とすれば組み合わせが先となる

しかし フィルタリングに強力な論理が組み込まれているのなら フィルタリングが先でもよい いずれにせよ実際に運営・働いてみてどの程度役に立つのか役に立たないのか 害があるのか などを検証した結果フィルタリングするということになる フィルタリングとは進化におけるフィルタリングに似ている

(ということは進化という概念・働きは、永遠の過去に


自由意志は数学では記述できない、という結論のもとに論を進めているところである

しかし、なんらかの法則・原理のもとにあるのではないかという

自由意志は揺らぎの一種なのだろうか

確率的に表現されるとしたら

精神的貯金と借金によって基本的な流れが決まり

その流れの中で、揺らぎながら進んでいく

そこにおいて自由意志を発揮する

しかし、精神的貯金がないと自由意志を発揮できない

よって、精神的貯金を積むことが

精神的貯金;知恵のレベルを高める、苦行、人・社会に貢献

つまり、自由意志を発揮したいなら精神的貯金を積むことが必要という


数学が存在するということから、この世界を読み解いてきたわけである。

まず、3つの結論がでた。

そこから自由意志の論理とはなにかを追求すべく、知性、論理、意識、心、本質、質、意味、味わい・意識内容の実態、知性における論理などを


運命をつくるには;
精神的貯金を積むべく苦行し人・社会に貢献し知恵のレベルを高め、それらによって自由意志が自在に発揮できるようになり、運命を改善することができる、という結論が
もうひとつ、プラスの快を少なく受け

数学が存在すること、から導かれるわけではないが、自分の大望を叶えるには;
プラスの快を少なく受け、マイナスの快を多く受け(大きくいえば、苦行することをなし)、人・社会に貢献し、(以上、つまり、精神的貯金を積み上げることをなし)、知恵のレベルを高める(これについては、さまざまな訓練があるでしょう)。
(それともうひとつ、自分よりも上位にある存在のもとに仕える、という姿勢は、大きく精神的な貯金を積むことになるし、それをやらないと、精神的借金を貯めることになるでしょう)。
すると、自由意志が自在に発揮できるようになり、運命も改善できるようになり、大望も叶う。
そういうことになります(以上は質の科学による結論です)(宗教関係の教えによると、信仰や祈りで、目的は実現する、となっているようです)
ただし、小さな望みの場合は、そこまで大仰にやらなくてもいいのはもちろんです。
(質の科学では、転生がありそうだ、という証明のようなものがあるので、転生があるとすれば、前の生までに精神的貯金が大きく貯められている人は特別なことをやらなくても成功する、となります。
現実にそういった人はいるわけで、そう理解すれば、納得がいくでしょう。そういった人たちはしかし、後半になると精神的借金が貯ることが多いので、そこに気をつけた方がいい、といえます)




(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)




(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)




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